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Risaku Suzuki, Water Mirror (15, WM-266), 2015
       

鈴木理策:水鏡

2015年7月23日(木)- 9月5日(土)
11:00–19:00
日 / 月 / 祝日休廊

[オープニング・レセプション 7月23日(木) 18:00–20:00 作家来廊]

この度ギャラリー小柳では、2015年7月23日(木)から9月5日(土)までの会期にて「鈴木理策:水鏡」展を開催いたします。
本展は、鈴木理策の最新作〈水鏡〉シリーズより、すべて未発表の作品で構成されます。湖水を撮るこの新たなシリーズでは、「水面」と「フォーカス」をテーマとし、鈴木は二次元の写真の中に、水の表面、そこに写りこむ風景、水の底という異なるパースペクティブを同時に写し取ることにより、レンズを通して現れるものと実際にその風景を目にする経験とが異なることを提示します。
人は、それぞれの層を目で行き来しながら見ることで湖を知覚しており、鈴木は、それらを同時に描いているモネの「睡蓮」を例として挙げながら、絵画もまたその可視化が可能であると考えます。絵画と違いカメラは層によってフォーカスを変えなくてはならず、同時にそれぞれの層を可視化することができませんが、鈴木のカメラが湖面を写し取るとき、そこには見たこともない景色が広がっています。スローシャッターで撮影された波紋が、抽象絵画のように美しく滲み、動かない木と揺らめく水面に異なる時間の流れを感じ、不思議な錯覚が生まれるのです。
一貫して「見る」という持続的な経験を提示し続ける鈴木の追及は、その表現において、本シリーズでますます抽象化、純化を深めています。
鈴木理策によって水鏡に映し出されるイリュージョンは、私たちの視覚を深く誘導し、知覚を刺激し、拡大させながら、見ることの喜びを与えてくれるでしょう。

〈水鏡〉シリーズの他の作品が、7月18日より東京オペラシティアートギャラリーにて開催予定の巡回展「鈴木理策写真展:意識の流れ」でもご覧いただけます。この大規模個展では、鈴木理策の表現の全貌をご堪能いただけます。合わせてご案内いただけますと幸いです。

鈴木理策は1963年和歌山県新宮市生まれ。自らの故郷であり聖地でもある熊野を題材とした「海と山のあいだ」、「奥熊野」や、「SAKURA」、「WHITE」、「サン・ヴィクトワール山」などのシリーズを、継続的に撮り続けています。連綿と流れる時間や、視線の動きを意識した作品は、国際的に高い評価を集めています。2000年第25回木村伊兵衛写真賞、2008年日本写真協会年度賞、他受賞多数。

7月23日木曜日、初日6:00pmからのレセプションには作家も来廊いたします。

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水鏡
鈴木理策

人間の眼はカメラのズームレンズの様に遠くのものを拡大してとらえることはできないので、遠くのものは小さく、近くのものは大きく感じ、その情報量の差によって視界内をひとつのまとまりある光景として認識している。だが複雑に光を反射する水は例外で、湖畔に佇んで水面を眺める際には、どこに視点を置くかによって得られる情報は大きく違ってくる。

湖水と空気の境界面に意識を向けた場合、ゼリーの表面のごとく艶やかな湖面に小さな葉や虫がたゆたっていることに気づいたり、風によって起こるさざ波が白い光の粒をざわざわと輝かせる様子を見たりするだろう。青緑色の水面のさらに奥へと目を凝らせば、沈むとも浮かぶともつかず水中に横たわる木の枝や、湖底でたなびく苔の感触、ゆらりと通り過ぎていく魚の姿を認めるかもしれない。これらは水面を注視していた時には見えてこなかったものだ。再び視線を移動させて水面の反射像に焦点を合わせてみる。すると先ほどまで見ていた「水」とは異なる「イメージ」に出会う。周囲に立つ木々は水面に映り込んだ像の中でも青々と茂り、はるか上空にあるはずの雲は手の届きそうな場所にぽっかりと浮かんでいる。深い奥行を感じさせる空間が平らな水面に現れている光景はとても不思議で、視線は吸い込まれる様に見えている世界の奥へ誘われる。だが反射像として現れた空間の奥を見ようと水面を覗きこみ、そこで水中の岩等が見えてしまったら、たちまち虚像の世界から現実の空間へ連れ戻されることになる。水面、水中、反射像、それぞれに異なる世界を見せてくれる湖沼は視覚表現の対象として実に魅力的だ。睡蓮の連作におけるモネの関心もこうした点に向けられていたと思う。「水鏡」はフォーカスの位置によってイメージが変化する写真の性質に注目し、大型カメラを用いて制作した。写真技法としては至ってシンプルで、世界が跳ね返した光をフィルムで受け止め、それをそのまま印画紙に焼き付けている。図像の加工やデジタル処理は行わない。実際に湖沼のほとりに立って水面を見る時には、水を囲んで立つ木と水面に映る木の違いを判別できる。片方には触れられるが、もう片方には触れることができない。それらは行動に働きかける可能性を持つものと、持たないものとしてある。だがカメラのレンズを通すと、地面に根を張って立つ木と水面に浮かぶ虚像の木の違いは判断し難く、それらが写真の中では等しく表れることに興味がある。

カメラは対象の部分を手に入れる装置であり、写真はカメラによる純粋な知覚だと考えている。けれども出来上がった写真を見る際には、知識や経験に依拠しながら対象を認識せざるを得ない。例えば「鏡はものを映す道具」という知識を身に付けた大人は疑いなく鏡を見つめるが、初めて鏡を見た赤ん坊はそこに映る自分を知らない誰かだと思って泣いたり、鏡の向こう側の世界に触れようとして手を伸ばしたりする。誰もがそんな風に鏡を見たことがあったはずだが、経験に浸透されて見る行為は効率化していく。ならば水面の鏡像を写した写真はどの様に見えるだろうか。経験に依らずに見ることの不可能性を考える上で水面はとても面白いモチーフだと思う。

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